『上級国民/下級国民』とマインドセット -7- ~教育分断の緩和には、子どもたちへの非認知教育が効果的~

皆さま、日々ワクワクして、
過ごしていますか?

ワクワク目標達成研究室の森です。

2019年8月1日に発売された『上級国民/下級国民』。

 『上級国民/下級国民』での指摘をみていきながら、硬直型マインドセット/しなやかマインドセットの考え方をベースにしつつ、今後の社会の中で、私たちのあり方などを考えていきます。

 今回は、「上級国民/下級国民」への分断が進む後期近代を前提として、教育について、そして後期近代をどう生きるかについて考えます。

後期近代はこれからさらに進んでいく

これまで紹介した後期近代。これからの時代、その流れは一層進むのか? それとも、歯止めがかかっていくのか?

 個人的には、後期近代はこれからさらに進んでいくし、それを遅らせることはできても、止めることはできないと考えています。

 日本においては、現行の終身雇用・年功序列が制度としても慣習としても崩壊した時点で、本格的な後期近代に突入するというのが私の見立てです。

(現在の「上級国民/下級国民」が流動化し、より他の先進国と近似した「上級国民/下級国民」が誕生するイメージでしょうか。おそらくは、現在の上級国民の大半が下級国民化する、のだと思います)

 それがいつになるかは、当然私にはわかりませんが…

終身雇用・年功序列とか、年金とか、いまの制度が崩壊して新しい秩序が生まれてほしい、的な「ガラガラポン願望」を、少なくない人が持っていると聞くが、ガラガラポンになったとして、「上級国民/下級国民」イメージはどうなるのだろうか?
「上級国民としての公務員や大手正社員」の価値が減少するので、現在的な「上級国民/下級国民」はなくなるのでしょう。しかし、マインドセットが硬直している限り、自分自身で別の「上級国民/下級国民」にランク分けするのは目に見えています。
そうなると、「持てる(カネ)」と「モテ」で自分自身をランクわけするようになる?
もっとシンプルに「どこに住んでいるか」で、自分も他人もランク分けするようになるのでは?

これからの子どもにますます必要なのは「子どもの非認知能力を高める環境」

 
 では、どうしたらよいのか?
 
 「知能=教育」により人々が分断されるのが後期近代である前提に立つならば、「学校や勉強が嫌い、学校についていけない」子どもたち、いわゆる「落ちこぼれ」をどれだけ減らせるか。これが、分断の溝を狭める一つのポイントとなる。個人的にはそう思っています。

 落ちこぼれる子どもについて考えるときに、よく挙がるのは「親の経済力」ですね。経済格差と教育格差には相関関係があるのはさまざまなデータで間違いはない。

 ただ、単純に、貧困層の子どもたちの塾代を国や自治体が負担すればいい、というだけの話ではありません。

 『上級国民/下級国民』での貧困層の教育リアルを見ても、貧困層の親も子供たちが学校に行く必要がないと考えている、または行かせない、というわけではない。でも、結果子どもたちは学校をドロップアウトする。

 ここでカギとなるのが「非認知能力」。

ポール・タフ『私たちは子どもに何ができるのか』では、非認知能力について、

「粘り強さ、誠実さ、自制心、楽観主義など」

『私たちは子どもに何ができるのか』 より

 といった表現をしています。要は「性格の強み」です。

 『私たちは子どもに何ができるのか』では、非認知能力のレベルについての図が「学習のための積み木」として紹介されています。

『私たちは子どもに何ができるのか』 より

 この図は、なかなかに示唆的です。

 マインドセットとか、レジリエンスも重要ですが、その土台となる積み木(愛着(アタッチメント)、ストレス管理、自制心)がしっかりしていないとダメ。

 この図の「学校」を「会社」に、「学業」を「仕事」に置き換えると、そのまま社会人にも当てはまりますね。

「学習のための積み木」、積み上がっている社会人、ほとんど見たことないけど!? 土台のストレス管理と自制心すら、かなり怪しいものだけど…
積み木の一個一個を、あせらず積み上げていくしか、ないでしょうね。

非認知能力はスキルではなく子どもを取り巻く環境の産物

 『私たちは子どもに何ができるのか』では、

「『非認知能力は教えることのできるスキルである』と考えるよりも、『非認知能力は子どもを取り巻く環境の産物である(強調原文)』と考えたほうがより正確であり、有益でもある」

『私たちは子どもに何ができるのか』 より

 としています。

 ここでの「環境」とは、端的に言えば家族、親が第一に重要になります。親がもともの非認知能力が弱い、または貧困ゆえの長時間労働などからくるストレスで非認知能力が弱まっていると、子どもに愛情を持って接する余裕もなく、子どもに八つ当たりしやすい。ひどい場合は、子どもにとってトラウマとなる接し方(重度のネグレクトなど)になる。

 結果、子どもの非認知能力は育たず、結果、成長してもドロップアウトする確率が高まる。経済格差と教育格差に相関関係が生じやすくなる。

 現に、貧困層の親の愛着(アタッチメント)に焦点を当てて、そこに介入するプログラムでは、子どもの能力に対照群と比べても有意な良い影響が出ています。

子どものうちから非認知能力が育つ環境を整えるほうが、大きくなってから伸ばそうとするよりも簡単であることは理解できる。では、非認知能力が十分に育つことなく大人になったら、どうしたらいい?
まずは、非認知能力が高い人(そういうカウンセラーなど)と接することで、環境を変えるのも一つでしょう。それに、大人でも「頭で学んで、実践する」トレーニングをすることは可能です。
語学みたいなものかもしれないな。幼少期の環境で語学の基礎は身に付くけれど、大人になっても学習である程度はカバーできる。
そうですね。大事なのは、親や周囲の環境のせいにしないことですね!

子どもたちの非認知能力を測定するシンプルな指標

 当然、子どもたちの非認知能力を左右する「環境」の第二は「学校」です。

 非認知能力というと、測定不可能というイメージがありますが、『私たちは子どもに何ができるのか』では、おもしろいことに、学校での、子どもたちの非認知能力を測定する指標として、

①出席日数
②停学回数
③留年の有無
④GPA(日本での通知表のようなもの)

の4つをあげています(日本では③はあまり機能しないので考慮不可)。

 『上級国民/下級国民』でも、底辺高校には「中学からの成績がオール1で、不登校300日」といった子どもたちが入学するとのこと。その点でも、言われてみれば、確かにそうなのかもしれません。

(とりわけ日本では、不登校問題はさまざまな要因がからむので、子どもたちの非認知能力だけが要因とはいえないでしょうか)

きちんと学校に通って、問題行動を起こすことなく、一定以上のの成績がある子どもたちは、一定以上の非認知能力がある、と。非認知能力という観点では、学歴あるいは学校歴と能力は相関するから、学歴で採用するのには一定の合理性はあるな。
だからこそ、逆に非認知能力を高めることが大事になってくるわけですね。
ただ、不登校問題など、本人の非認知能力のみの問題で片づけられるものではないものも多いのではないか?
だからこそ、クラス、あるいは学校全体で子どもたちの非認知能力を高める環境づくりが大事になってくるわけですね。『私たちは子どもに何ができるのか』では、問題行動の多い(非認知能力が低い)子どもを、停学等で隔離するやり方は、クラス全体が委縮して、うまくいかないのだと指摘しています。
ただ、これ以上学校や先生に負担をかけたら、先生の過労死や自殺が増えるのでは?
先生が尊敬されにくいのは世界的なもののようですが、日本も例外ではありません。ただ、次回も触れますが、日本の先生方は教え方などをみても、世界的に見て頑張っているのは間違いないです。そうした現場の熱心な先生方の献身に甘えて、現場に過大な負担をかけがちなのは、学校のみならず、日本全体の問題ですね。

次回予告

 次回は、非認知能力と学校教育についてさらに触れたうえで、結論として、後期近代の中で私たち一人ひとりのレベルでできることについて考えてみたいと思います。

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